嫌われ者だった「デザイン」が地域に受け入れられるまで | 新山直広さん〈1/4〉
「デザインの手前」は、デザインに関わる編集者2人がさまざまなクリエイターをお招きし、デザインの本質的な価値や可能性についてお話しするトークプログラム。ニュースレターでは、最新エピソードの内容をテキスト化してお届けしています。今回からの新ゲストは福井県鯖江市で活動するクリエイティブディレクター・新山直広さんです。初回のエピソードでは鯖江に移住し、地域でデザインする状況をつくるまでのお話を伺いました。
デザイナーは「詐欺師」だった!?
原田:今週から新しいゲストとしてお招きするのは、福井県鯖江市でデザイン会社「TSUGI」の代表をされているクリエイティブディレクターの新山直広さんです。
新山:よろしくお願いします。
原田:まず新山さんのプロフィールをご紹介させていただきます。新山さんは1985年生まれ、大阪出身のデザイナーです。京都精華大学で建築を学ばれた後、福井県鯖江市に移住され、市役所勤務を経て、2015年にTSUGIを設立されました。福井県を創造的な産地にすることを掲げて、ロゴやパッケージなどのグラフィックデザイン、アクセサリーブランド「SUR」などの自社ブランド、福井の産品を扱う行商型ショップ「SAVA!STORE」、産業観光イベント「RENEW」などを手掛けています。地域で活動するデザイナーを「インタウンデザイナー」と定義された方でもあって、2023年には地域とデザインのこれからを探求する「LIVE Design Shool」も開校されました。そんな多岐にわたる活動をされている新山さんが、今週からのゲストとなります。
僕は新山さんとリアルでお会いしたのは実は一度だけでして、2023年の竹尾ペーパーショウというイベントで、全体のディレクションされていた原研哉さんと新山さんのトークがあったのですが、そこでモデレーターをさせて頂きました。山田さんは普段出張がかなり多そうですが、鯖江にも行かれたことがあると仰っていましたよね。
山田:直接新山さんとお会いしてはいないのですが、活動の拠点にお邪魔したことがあって。別件で鯖江に伺ったときにすぐ近くにあるということは存じ上げていたのでショップの方にちょっとお邪魔して、事務所も少し覗かせていただきました。きちんとお話をするのは今回初めてなので楽しみにしております。よろしくお願いします。
原田:今日は、「地域にデザインが息づく手前」というテーマでお話を聞いていきたいと思っています。東京では、デザインの仕事というのが当たり前のように成立してる状況がずっとあったと思うのですが、実は日本全体を見た時に東京の状況がかなり特殊だったという時期が長く続いていたんじゃないかと。象徴的な話として、新山さんが編著者として関わられている『おもしろい地域には、おもしろいデザイナーがいる』という書籍の巻頭で、「デザイナーは詐欺師だ」と言われたという話があって。
新山:(笑)。
原田:要は、都市部で活動しているデザイナーが地域の産業に関わる仕事でやって来た時に、地域の産業を指導するような関係性となって、そこで関わったものが売れる/売れないに関係なく、仕事が終わって一定期間経つといなくなってしまう存在だと。そういう中で、地域においてデザインやデザイナーというものの認識や受け止められ方がポジティブではないという部分が少なからずあったという話なんですね。
そもそも地域にデザインする状況をどうつくっていくのかというところがまさにデザインの「手前」の話としてひとつあるのかなと思っているので、今日は新山さんが鯖江に移住されてからどんなことをされてきたのか、どういう状況をつくってきたのかというお話を聞いていきたいなと思っています。
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地域×デザインの系譜
原田:「地域とデザイン」ということを考えた時に、そこにはやっぱり歴史があるのかなと。まずは20世紀の話ですかね、東京のデザイナーがいわゆる「先生」としてやって来るような時代があって、その状況が時代とともに変わってきたと思うんですね。2000年代以降、コミュニティデザインというものが出てきて、いわゆる形をつくるデザインではなく、地域の中である種の仕組みや人と人の関係をつくったり、人材育成みたいなことも含めて目に見えないようなデザインがやられていく動きがあって、よく知られている山崎亮さんのような方もいらっしゃいますよね。その後、東日本大震災が起こった2011年前後に、地域におけるデザインの取り組み方や潮流がまた変わってきたような気がしていて、おそらく新山さんが移住されたのもこのぐらいの時期ですよね。
新山:2009年なので、ちょうどそれぐらいの時期ですね。
原田:そこからはその土地に根ざし、地域を拠点に活動するというスタイルが増えていった気がするんですよね。そうした変遷がある中で、新山さんはいま、地域で活動するデザイナーのことを「インタウンデザイナー」と定義されて、さらにその先をつくっているところなのかなと思うのですが、新山さんご自身が鯖江に移られた頃のデザインの受け止められ方も含め、どういう状況があったのかというところからお話を聞いていってもいいですか?
新山:僕は大阪出身なのですが、2009年に鯖江に移住をしました。大学時代は建築を学んでいて、ゼミの先生が永山祐子さんだったりゴリゴリ建築家を目指すようなところにいました。でも、リーマンショックがあったりとか、人口がこれから減っていくという時代の中で、OpenAやblue studioなどによるリノベーションの動きがあったり、まさに山崎亮さんのコミュニティデザインみたいな考え方が出てきたんですね。その中で、建物を建てるよりもこっちの方に未来があるんじゃないかと思って、大学卒業と同時に鯖江に移り住みました。
厳密に言うと、大学の先生の会社に就職をして、その先生がやっているアートプロジェクトの運営事務局みたいな形で鯖江に行ったのがもともとのきっかけなんですよ。移住した当時のモチベーションは、いま振り返ればぶっ飛ばされるような恥ずかしい話なんですが、とにかく地域活性をしたくて、「もう安心してください、僕が来ました、と。鯖江を活性化させてあげます」みたいな(笑)。どのツラで言ってんねんという感じで移り住んだのを覚えています。
新山:だから、デザインというところに入っていくまでに実はタイムラグがあったんです。地域活性をしたくて移住をして、仕事としてはアートプロジェクトの運営事務局と漆器の産業調査をするようになったのですが、その産業調査が自分の中で結構衝撃的で。1年目は職人さんのところを100件くらいまわって、「景気どうですか?」「後継者どうですか?」といったことを色々ヒアリングしていたんですが、大体8割くらい返ってくる答えが、「もう漆器はオワコンだよ」「全然売れないよ」みたいな感じで。「息子に継がせたかったけど、こんなに売れないなら逆に恨まれる」といった声が多かったんですよね。
一方で僕は、「まちづくりがしたい」「地域活性がしたい」と仲良くなった職人さんと話していたのですが、「まちづくりも大事だけど、鯖江はものづくりの町やぞ」と言われて。鯖江は、眼鏡や漆器、繊維など周辺を含めると7つの地場産業があるという日本の中でも相当珍しいものづくりの集積地なんですね。そういった背景があるから、ものづくりが元気にならないと地域も元気にならないということをその時にまざまざと感じたんです。
一生懸命考えた結果、ものづくりを活性化させるために何をすべきかという時に、デザインが圧倒的に足りていないと思うようになりました。例えば、技術は高いかもしれないけど、形やパッケージがあまりイケてなかったりとか、当時はWebサイトを持っている会社さんもほとんどなくて、そういった部分でデザインが凄く大事なんじゃないかと考えるようになっていったんです。
原田:当時、鯖江の中でものづくりをしている方たちにとって、デザインというものはどのように認識されていたのですか?
新山:「デザイナーになります」と宣言したことがあったのですが、みんな歓迎してくれると思いきや、凄い非難を受けて(笑)。それこそ「あいつらは詐欺師だ」とか、「好き勝手して自分だけ賞を取ったりしてしているみたいだけど、ずっとうちに在庫が眠ってるわ」みたいな声が多かったですね。デザインが大事だと思っていた自分は、職人さんや地域の側がデザインに対して凄くアレルギーを持っていたことに面食らったところがありましたね。
原田:当然その状況のままでは、なかなか思うように仕事もできない環境だと思うのですが、そこからどうやってデザインをできるような形にしていったのですか?
新山:移住をしてから、デザイン事務所をつくるまでの6年間は本当に下積みをしていましたね。デザイナーにならないといけないと思ったのが移住して2年目の年で、そこから2つのことを意識しました。ひとつは、デザインというものがメチャクチャ嫌われている中で、どうすれば信じてもらえるのか、一緒に取り組んでもらえるかということをとにかく考えました。もうひとつは、単純に自分のスキルを高めることですね。デザインはまったくのド素人だったので、デザイナーの作品集を買ってきてそれをスキャンして、パソコンでなぞったりということを2年くらいしていました。スキル的な部分については、そうやって一つひとつ解決をしながら独学でやっていった感じですね。ただ、そこからまだ独立するまではあと4年くらいあって。その後はなぜか鯖江市役所で働いたり、本当に色んなことをしながら、最終的にしっかり業としてデザインをするようになったのは2015年からですね。
なぜ地域にデザインが必要なのか
山田:最初にグラフィックデザインにアプローチしたというのは、それが地域の需要として大きくあるといった手応えのようなものがあったのですか?
新山:全くなかったです。まず、鯖江市内にはデザイナーが1人もいなかったですし、お隣の福井市には小さな代理店があって、新聞やテレビなど広告文脈の中のデザイナーはいたのですが、僕がやりたかったことはそういうことではなかった。ものづくりをどうやってデザインで元気にするかということを考えていたから、誰一人先輩みたいな人はいなかったんですよね。
山田:ちなみに僕は2010年に『PEN』という雑誌にいた時に、デザインの特集で徳島の神山町の事例をを取り上げているんですね。イン神山とかを取り上げて4ページくらいの記事をつくったのですが、社内からも「これってデザインなの?」みたいな反応があって。新山さんが鯖江に移られた2009年頃は、地域の活動がデザインになるということ自体がまだあまり認識されていない時期ですよね。
新山:たしかに仰る通りですね。多分僕は建築の周りから凄く影響を受けているのと、こう見えて心の中には結構パンク精神があって(笑)。例えば、大学の同級生で大手の設計事務所やデザイン事務所、広告代理店に行くヤツに対して、「ひっくり返したろ」みたいな気持ちをずっと持っていたんですね。
当時、CET(Central East Tokyo)などのリノベーションの動きをメチャクチャかっこ良いと思っていましたし、山崎亮さんのコミュニティデザインみたいなものもよくわからないけど多分正しそうだと。そういう動きを見て凄く面食らったんですね。僕の大学の先生は、片木孝治さんというもともとシーラカンスという設計事務所にいた方なんですけど、彼自身これからはハードのデザインではなく、ソフトのデザインだということを言っていて、その考え方が面白いと思っていました。自分なりにはパンクス的な感じで、「これからの最先端は地域だ」「僕が活性化してあげます」みたいなナメたことを当時は考えていて、凄く意識高く「こっちが正しそう」みたいなところで移住をしました。もともとまちづくりがしたかったけど、鯖江はものづくりの街だから、ものづくりが元気にならないとまちづくりに到達できない。要はまちづくりの「手前」にものづくりがあった。さらに言うと、ものづくりの「手前」にデザインが必要だったみたいな感じでしたね。
原田:新山さんが言う「パンクス的」というのは、既存の建築設計やデザインみたいなものに対して、ある種オルタナティブなデザイナー像、建築家像をつくっていきたかったということでもあったのかなと。「デザイナーは詐欺師だ」と言われたことは、既存のデザイナー像を書き換えるという意味では新山さんにとって最高の舞台だったのかもしれないですね。
新山:たしかにそうかもしれないですね(笑)。自分は正しいと思っているけど、職人さんからはメチャクチャ反発されるという状況の中、この差を埋めるためにどうしたらいいか正直わからなかったというのはありました。ただ、地域に来ていたデザイナーと職人さんの関係性というのが、「先生」と「生徒」みたいな感じだったということを聞いた時に、コミュニケーションの設計だとかそういうところが根本的に少し違ったんじゃないかなと思いました。例えば、僕はいつもスタッフに、「メールよりは電話、電話よりは会おう」みたいなことは言っているんですね。非効率ではあるけど、そっちの方が街の温度感に合っているということがあるんですよね。
信頼関係をちゃんとつくっていく上では、やっぱり東京からパッと来て指導的な感じで何かをつくって展示会に出して、でも売れなかったとなると、たしかに職人さんの立場からすると「何やったんやこれ」となりますよね。事業が終わったらみんな知らんぷりみたいな感じでは、職人さん側が怒るのも致し方ないと思いましたし、一方で職人の側はすべて悪くなかったのかというとそういうことでもないと思っていて。やっぱり売る努力というのは、関わる人みんなで頑張ることなんじゃないかと凄く思ったんですね。
行政が補助金を出すにしても、出しっぱなしでいいんですかとか、デザイナーは良い作品をつくったかもしれないけど、業界内の評価だけで良かったんですかとか。職人さんは売る努力したんですかとか。そういうところに自分なりに違和感を感じていて。結果的に大事なのは、良いロゴやパッケージをつくることよりも、ちゃんと売る仕組みを考えるとか、販路までがんばるとか、一緒に汗をかくみたいなことなんじゃないかということを仮説として持つようになって。それが鯖江に移り住んで3年目くらいでしたね。
原田:そこから実際に自分でデザイン会社を立ち上げるまでに4年ほどの歳月を要しているというのは、それ自体が地域でデザインをしていくということに対する新山さんなりの姿勢なり覚悟を示しているように感じるんですよね。地域に根ざしてデザインの活動をしていくということ自体が、新山さんが鯖江に移住された頃のスタンダードなデザイナー像とはだいぶ離れていたと思うんですね。それだけ時間をかけて関係性を積み上げていって、ようやくデザインの仕事を始めるというところに新山さんの姿勢を感じるのですが、将来デザインをするために市役所で働いたというところもあったわけですよね。
新山:結果的には、ですかね。実はそんなに美しい話でもなくて。販路まで案内できる、伴走できるデザイナーになろうと思った時に、やっぱり福井にいてもダメだと思って、一回東京に行こうと思ったんですね。それをお世話になっている役所の人や地域の人に話していたら、「新山が鯖江から出るらしい」と市役所あたりが結構ザワついたんですね。僕は移住者第一号だったこともあって、「新山を確保せよ」みたいな感じになって(笑)。その時に市長から、「市役所の中でデザインというものをちゃんとやってみないか」と言われたんですね。それがメチャ面白くて。市長曰く、行政というのは最大のサービス業であると。インフラ、社会保険、地域活性、子育てなど色んなサービスが集約されている機関が自治体で、そういう場所だからこそデザインが超大事だということを当時75歳くらいの市長に言われて、度肝を抜かれました。もしかしたら、行政の中でデザインをすることは凄く意義・意味があることなんじゃないかと。多分上手に転がされたのですが、2012年から2015年までの3年間、鯖江市役所の商工政策課という産業振興をする課で臨時の嘱託員という形で働くようになったんです。だから「拉致」されたんですよ、僕は(笑)。
劇的に変わったデザインの認識
原田:そこからTSUGIの設立に至るわけですが、もともとデザインに対する拒否反応がある中、ものづくりをされている職人さんたちにデザイナーの仕事を認めてもらうために、新山さんが努力されたこと、取り組まれたことは具体的に何かあったのですか?
新山:2つあったと思っていて、ひとつはやっぱり地域に馴染むことですね。移住した当初、青年団とかあるかなと思って公民館に行ったのですが、青年団は10年前に解散しているから壮年会を紹介してやろうと言われて、40~50代の人たちの寄り合いに参加したんですね。だいたい周りは職人さんみたいなところに所属しながら、祭りや会合の準備など、みんながやりたがらないこととかを一生懸命やってたんです。
そうすることで、「新山はバカだけど悪いヤツじゃないよね」みたいに言ってもらえるようになって。彼らも移住者が初めて鯖江に来て、どう接すればいいかわからない中、僕が一生懸命汗をかいていることに対してある程度認めてくれたんですね。「郷に入れば郷に従え」的なことを一生懸命やりました。
もうひとつは、役所に入った2年目にサークル活動としてのTUSGIをつくったことです。会社にしたのは2015年なんですけど、設立は2013年なんですね。役所というのは広く浅く色んな情報が入ってくる場所で、帝国データバンクから倒産情報のFAXなどが毎日のように入ってきて、このままのペースで行ったら10年後には産地がなくなるんちゃうかという勢いだったんですよ。それに対して行政でできることにも限界があるなと。じゃあどうしようという中で、同世代の仲間がいたらチームをつくりたいなとずっと念じてたんですよね。そうしたらちょっとずつアートプロジェクト出身の後輩たちが鯖江に移り住んできてくれて、彼らとTSUGIというチームをつくったんですよ。
当時から会社にするというのは野望としてはあったんですけど、どちらかというと10年後の地域の担い手になるために自分らからアクションしようぜみたいなチームを立ち上げて2年活動したのですが、これが結構大きい出来事だったんじゃないかなと思いますね。
原田:地域におけるデザインの受け入れられ方を変えていくために新山さんがやったことは、デザインで結果を出して認めてもらうということではなく、まさにその「手前」のことをまずはやられたというところが凄く大きかったんだろうなと。
新山:そうだと思います。
原田:TSUGIとして色々な活動をされる中で、いまでは鯖江の中で色々な期待をされている存在になっていると思うのですが、新山さんが移住をされた頃と現在で、デザインの認識のされ方はどのように変わってきていると感じていますか?
新山:劇的に変わったと思っています。デザインというものをちゃんと経営やものづくりのリソースの中に組み込んで、例えば自社商品やショップをつくるという動きがこの10年間で劇的に増えて、僕らの街には工房直営ショップなど新しいお店が35店舗できたんですよね。これはデザインというものを大事に思ってくれている賜物だと思っていますし、「デザイナーはもう怖くない」という意識が浸透していると感じます。それまでデザイナーは詐欺師とかちょっと怖い存在と認識されていたところがありましたが、そうした彼らが知っているデザイナー像と、29歳で独立して何かしようとチョロチョロしているアンちゃんはちょっと違う感じだったんですよね。僕が独立した時は、皆さんから「お前デザインなんてできるのか?」「仕事なんてあるのか?」とメチャクチャ心配されたんですね。自分のキャラクターも多少あったと思うんですけど、いまではデザイナーに対して拒否感を持っている人は劇的に減った。なんだったら、一回会っただけで「このデザイナーはちゃんと一緒に伴走してくれるのか?」とか「この人は口だけやな」という目利きをもうメーカーさんは持っていると思うんです。
原田:それまでのデザインが地域においてブラックボックス化していたところがあったんでしょうね。悪く言えば詐欺師であり、言い方を変えれば魔法使いみたいな。何をしているのかよくわからないけど、何か良いものをつくってくれる存在というか。良いものかどうかは人それぞれで受け止め方は違ったと思いますが、ある種そういう存在として受け止められていたものが、新山さんのように等身大のアンちゃんが地域に入ってきて、デザインをやっていくというところが、それまで築いてきた関係性も含めて、信頼できる存在として見てもらえたというのがあるんだろうなと。
新山:そうですね。
原田:ここまで新山さんが鯖江という地域でデザインする状況をいかにつくってきたのかというお話を伺ってきました。次回は、地域で活動しているデザイナーが日々どんなことをしているのかということについて伺いたいと思っています。地域でデザインをされている方たちは、デザインはもちろん、その周りにあるあれこれについてもかなり色々されている印象があるので、そういった地域におけるデザイナーの具体的な活動や、どこまでをデザインとしてやっているのかということを聞いていきたいと思っていますので、次回もよろしくお願いします。
新山:はい、よろしくお願いします。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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