「つくる」という体験から、世界の手触りを取り戻す | TAKT PROJECT・吉泉 聡さん〈3/4〉
「デザインの手前」は、デザインに関わる編集者2人が、さまざまなクリエイターをお招きし、デザインの本質的な価値や可能性についてお話しするトークプログラム。ニュースレターでは、最新エピソードの内容をテキスト化してお届けしています。TAKT PROJECTの吉泉聡さんをお迎えする第3回では、「モノ」や「身体」を起点としたデザインの実践についてお話を伺いました。
強まる言語化・概念化の流れ
原田:今週は、TAKT PROJECTの吉泉聡さんをお迎えする3回目となります。前回は、デザインにおける目的や意味について、さらには意味付けされる前のマテリアルの話などを色々伺ってきました。今日は、そうした吉泉さんのデザインの考え方が実践の中でどのように形になっているのか、「モノ」や「身体」といったものを起点にしたデザインの実践というテーマでお話を進めていければと思います。
TAKT PROJECTは、いわゆる「THINK TANK」ではなく「THINK + DO TANK」を標榜されていますよね。そこからも分かるように考えるだけでなく、当然ながら「つくる」という行為を非常に大切にされていると感じています。「つくる」ことと「考える」ことの行き来というのが、デザインを語る上であらためて重要なトピックになっているのではないかという気がしています。
たとえば近年のデザインは、「デザイン経営」や「デザイン思考」といった文脈で語られることが増え、方法論というものが重視されるようになっていますよね。企業においても、デザインというものが単に形をつくるとか、コミュニケーションを設計するだけではなく、経営のレベルにもデザイン的な視点を取り入れていこうという流れがあります。そこには、デザインを方法論として概念化・言語化し、形式知として共有しようとする大きな思想があると思っています。それ自体はもちろんひとつの方向性だと思うのですが、最近はデザインが概念化しすぎているようにも感じます。そこに対して、つくることと考えることの往復が伴っていないと、やはり辿り着けない地点があるのではないか。 まさにそこを吉泉さんやTAKT PROJECTは大事にされていると思っていたので、今日はそのあたりをお聞きしていければと思います。
吉泉:ありがとうございます。まさに THINK + DOの「DO」には「つくる」という意味を考えていました。デザインには本当に色々な定義があるので、あくまで私自身の捉え方になりますが、やはり「つくる」ということがとても大事だと思っています。概念化のお話がありましたが、概念化されたり、言語化されたりするということは、ある程度人間が「わかった」とされる状態に持ち込むということだと思うんです。でも、そうして「わかる」ということを目的化したり、それを推進力として物事を進めていくことは、実は本来のデザインとは違う態度なのではないかとも感じています。

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吉泉:もし、デザインを芸術に近いものとして捉えるとすれば、それは音楽のように「説明はできないけれど良い」とか、「説明はできないけれど、これがないと困る」といった、「わからなさ」が前提にある世界だと思うんです。そういうことが存在しているんだということを前提として物事を考えるかどうかで全然違う気がするんですよね。私はデザイン思考を否定する気はありませんが、もしうまくいかないと感じている人がいるとしたら、「わかる」ということを最終的な目標にしてしまっていることに原因があるのではないかと思います。形式化することを目的にしてしまうと、本来最も大切な「わからなさ」との向き合い方が置き去りにされてしまいかねません。
そういった中で、「つくる」という行為にはどんな役割があるのか。それは、言葉にできなかったり、概念化し切れていないことに対して、自分の身体を通して「触れる」ことができる営みだと思っています。もちろん目的はあるけれど、つくる過程を通して、思考とは異なる「もうひとつの知性」が働くというか、そんなふうにとらえた方が良いのかなと思っていて。いわゆる頭の良さとは別のあり方の知性というものを人間はもともと持っていて。簡単に言うと「感じる」ということに近いかもしれませんが、そこから多様な思考や想像が展開できるのだとしたら、それこそが人間の素晴らしさのひとつではないかと感じています。そこを総動員しながら取り組むことこそが、デザインなのではないかと思っています。
原田:少し前までは、デザインというものに対して、デザインの外にいる人たちは、何か役に立ちそうだから「わかろう」として言語化、概念化に努めてきた一方で、デザインの中にいる人たちは、デザインを言語化できないからしっかりと伝わらないんだと言われ、言語化するように促されてきたと思うんです。内からも外からも、デザインをわかる/わからせるという流れが強まってきたと思うんですね。でもいま改めて振り返ってみると、吉泉さんのお話もまさにそうですが、デザインはもともと「分からない」というところに立脚しているものなのかもしれないなと。その「分からなさ」とちゃんと向き合うことの方が大事なんじゃないかとみんなが思い始めている時期というか、なんでも言語化すればいいわけではないのは凄く大事な話だと思っています。
吉泉:本当にそう思いますね。言葉にするという行為は、ある意味でエリアを決めているようなものじゃないですか。でも、何かを言語化した瞬間にこぼれ落ちていくものが出てくるんですよね。それが何なのかを身体を通して考える姿勢というのがあるんだろうなと思います。
山田: 文章ではよく「行間を読む」と言いますが、その言葉が示しているように、書かれていない部分にメタファーや物語など色んなことが隠されていて、それを読み解く力というのが読み手側にも求められる。それはある種の訓練によって身につけられるものですが、そういった行間的なものが、社会の中でごっそり削ぎ落とされてしまっている印象もあって。わかりやすさや、わかる/わからないといった単純な二項対立の方へと世の中全体がシフトし続けてきたところがあるのかなと。その反動みたいなものがひとつの大きなうねりとして世界的な傾向になっていて、吉泉さんの実践もそうした中にあるのではないかと思っています。

偶然的な発見を前向きに捉える
原田:当然ですが、つくり手もすべてを分かった上でつくっているわけじゃないですよね。実際にはできあがったものを見て初めて気づくこともある。それは本来、デザイナーの営みとしてはごく自然なプロセスで、昔からずっと行われてきたことだと思うんです。でも最近は、つくっている段階ですでにすべての意図が明確になっているはずだから、それは言語化できるはずだと求められるような、ちょっとした逆転現象が起きているように感じますよね。
山田: ちょっと批判的な言い方になってしまうかもしれませんが、建築の世界ではいま、パースの精度がもの凄く高まっていて、写真と見まごうばかりのクオリティのものが当たり前になってきているんですね。それを見て育ってきた世代が、ある種パースを越えることができないような状況にあるんじゃないかという危惧があって。パース以上でも以下でもないというか、そこが想像力の着地点になってしまう部分がある。吉泉さんが先ほどおっしゃっていたように、実際につくるプロセスの中で得られる知恵や感性のようなものが本来あると思うんです。もちろん、3Dプリンタみたいなものやパースみたいなものはとても有益だし、デザインに必要なプロセスであることは間違いないです。ただ、そこに過度な信頼を置きすぎると、かえって足元をすくわれてしまうような危うさもある。
別にARやテクノロジーを否定したいわけではないんですけど、ものづくりの余白や行間といった部分にもっと目を向ける必要があると思っていて。TAKT PROJECTが見据えているのもまさにそういうところなんじゃないかと感じています。
吉泉:そうですよね。いまは、目的を持って何かをやるということが当たり前になりすぎていて、目的の外にある時間の過ごし方やものの考え方というのが、効率の悪いものとして扱われていますよね。でも実は、目的を持たずに過ごしている時間の中でふと気づく瞬間があったり、何かに触れることで直感的に感じ取ることは凄く大事だと思うんです。そこに気づける人間の面白さがあるような気がしていて。そうした偶然的な発見や直感を前向きに捉えていくということが、デザインというものが他の分野とは少し異なるところとしてあるんじゃないかと思っています。

デザインが体現するもうひとつの知性
原田:吉泉さんご自身は、ものを形にすることから色々思考が広がっていくような体験は日々実践の場で感じていらっしゃいますか?
吉泉:そうですね。やっぱり、延々そのことだけについて考えていても、あまり良いことは浮かばないんですよね(笑)。机に向かって10時間集中したからといって必ずしも良いアイデアが生まれるかというとそうではない。むしろ、他のことを考えている瞬間に「これだ」と気づくことってありますよね。皆さんも経験があると思うんですけど、そういうことが凄く重要で、その時にある刺激というのは身体を通して感じることがあると思うんですよね。人間はそういうことができる動物なんだと思うのですが、それを思い出せなくなるような、仕事の進め方や物事の解釈の仕方が、特にビジネスの世界では強くなりすぎている気がしていて。そのプロセスを説明しろと言われてもなかなか言語化できない。芸術やデザインには、もうひとつ別の人間の知性として、そういうことへのカウンター的な役割があるんじゃないかと思っていて、僕自身もそこが凄く面白いと思っています。そういう意味で工学はある意味では凄く知性的な分野ではあるんですけど。そんなことをいつも思っていますね。
山田: 工学は、やっぱり収斂させていくことがひとつの大きな特徴だと思うんですよね。それに対して、収斂させないということもひとつの大きな手段だということが、TAKT PROJECTの活動を見ているとよく分かります。
いまこの収録はTAKT PROJECTのアトリエで行っていますが、良い意味で驚くのは、インスタレーションの作品のように洗練された印象とは裏腹に、思っているよりもごちゃごちゃしているんですよね(笑)。道具や素材がそこかしこにあって、手を動かして試行錯誤をしていることや思考の過程が事務所にお邪魔する度にわかる。そこがまた魅力的だなと。
以前にミラノの教会で行われた展示がありましたが、これは布を使って、イソギンチャクのような形のものが大量に設置されていましたよね。ひとつとして同じ形がないことも凄く美しかったし、TAKT PROJECTらしいなと思ったんですね。実は僕自身、あの展示がTAKT PROJECTの活動をより深く理解できたものだったんです。ミラノサローネは色々なデザイナーが時代を読み解き、自分のオピニオンのようなものを発している中、その教会が凄くまた良い場所にあって、ここでゆっくりしたいなと(笑)。取材者としては限られた時間でいかに多くの展示を回るか、どれだけ情報を収集できるかということがは重要なんですね。でも、あの教会での展示はあまりに心地良くて、僕も吉泉さんと一緒にその場に小一時間くらいのんびり話をしましたよね。
吉泉:そうでしたね。
山田: すぐに経済活動としてわかりやすい成果を持つデザインかというと、そうではない。でも、心にすっと入ってくるもので、心に作用することもデザインのひとつの大きなファンクションだと言えるんだなと。僕にとってTAKT PROJECTの活動への理解を深める転換点になった気がしています。
吉泉:ありがとうございます。
山田:いわゆる学校で学ぶデザインとは違うんですよね。これは否定しているわけではまったくないのですが、たとえば『日経デザイン』や『AXIS』などに代表されるような、経済活動とデザインを結びつけて語ってきたテキストというものがあると思うんですが、それだけじゃないんだと。その中で、経済的なデザインの人たちも吉泉さんたちの活動に活路を見出そうとしているところがあって、そこにはもっと可能性や学びの機会があるということなんだと思います。
体験と思考が結びつく瞬間
山田:去年トヨタと一緒に会場構成に取り組まれていたプロジェクトがありましたよね。あの時の出展作品自体は、トヨタさんの方で制作されたものだったと思いますが、ファンクショナルなデザインをする最たる企業であるトヨタがポエティックな表現をされていて、それが凄く面白かったです。
吉泉:ありがとうございます。僕もああいった形でトヨタさんのような企業とご一緒できるのは、凄く理想的だと思っていて。そうしたことをどんどん実装していけるかどうかはが大切だと思っているんですよね。説明が難しいことの中にこそ大切な価値がある。そういったことを理解しながら、企業の方々と一緒に進めていけるというのは凄く大事だと思っています。
一方で、感じることや身体性が凄く大事であると同時に、実は何も考えていないと何も感じられなかったりするんですよね(笑)。やっぱり徹底的に知識や問いが自分の中に入っていて、ずっと頭を使っている。その積み重ねがあるからこそ、ふとした身体的な刺激や体験が、思考と結びついて何かが生まれる瞬間がある。その場で起きていることをどのように感じ取れるかは、自分の中の頭の中にあるものによって変わってくると思うんです。考えることと感じることは決して別のものではなくて、凄く密接に関係している。どちらも人間らしい営みだと思うし、その両方を肯定的にとらえてデザインしていけたらいいなと思っています。
原田:たしかに知性と感性はつい二項対立的に捉えられがちですよね。感性というと、どちらかというと瞬発力とか反射的に何かを感じ取るものだというイメージがありますけど、実際には、その前提としてどれだけの知識や経験が蓄積されているかによって、感じ取れるものの解像度は大きく変わってくる。そこは当然あるわけですよね。
吉泉:そうですね。ちょっと真意はわからないんですけど、以前どこかで聞いた冗談のような話で、「日本人は肩こりが多いけど、アメリカ人には肩こりという概念がそもそもないらしい」と(笑)。その概念を知っていると、逆にやたらとそれを感じるようになるみたいな。それは妙に納得できるというか、ありそうだなと思いますよね。
山田:やっぱりバックグラウンドがわかるからこそ感動できたり、感性に訴えかけてくるものがありますよね。もちろん、子どものようにピュアな前提知識がない状態で見る喜びというのも存在するとは思うんです。ただ一方で、知識があるからこそ深く味わえる喜びも同時にあって、どちらも大切だと思うんですよね。それで言うと、僕は「子ども」という表現をしましたが、いわゆる一般の方々というのは、ある意味でそういう子ども的な立場にも近いというか。つまり、デザインの専門的なバックグラウンドがなくても届くものもあるし、逆に言うと吉泉さんたちの面白いところは、たとえば科学的な知識だったり物性の理解があるとよりその面白さが深まったり、感動の質が変わったりする点だと思うんですよね。どちら側からでも楽しめるバッファがあるところが面白いと思っていて。知性と感性を手放さずに、両者にちゃんと向き合って手綱を握りながら進んでいく。時々手綱が手を離れてしまうこともあるけれど、それすら楽しむような姿勢というか。これは2回目で話した内容にもつながっていくような気がしています。
概念化すると解像度が下がる!?
原田:さらに1回目の話にもつなげると、たしか何かのインタビューで吉泉さんが話されていたと思うのですが、東北のマタギの方とのやりとりの話が凄く印象に残っていて。吉泉さんが「自然が綺麗ですね」と言った時に、マタギの方たちは「自然」というふうには捉えていなくて、「これは◯◯山で…」というように、一つひとつの山として捉えていると。その物事の捉え方が凄く面白いなと思ったんですよね。
これは今回のテーマにもまさにつながっていると思っています。「自然」というのは、言ってみれば概念化された言葉じゃないですか。だけど、それを「自然」というラベルで一括りにしてしまうことは、解像度としては実はかなり低いと言える気がしていて。同じように、デザインという言葉もどんどん概念化されていくなかで、言葉だけが独り歩きしてしまって、むしろそのデザインとどう向き合うかという本質的な解像度は落ちていってしまっているのかもしれない。そういう意味でも、マタギの方の話はとても示唆的だなと。
吉泉:本当にそうですね。
山田:この間、石川直樹さんに取材をする機会があったのですが、石川さんといえば、さまざまな場所に実際に足を運ばれている方ですよね。彼が語る「自然」というのは、凄く解像度の高いんですよね。「自然を大切にしましょう」とか「ゴミを捨ててはいけません」みたいな、教科書的な話ではなくて。やっぱり、下手をすると死と隣り合わせになるような極限の自然と向き合っているからこそ出てくる解像度の高さというか、意味合いの重さがあるんですよね。もちろん、彼のように8,000メートル級の山に登ることは簡単にできることではないですが(笑)、でも吉泉さんが向き合っている東北というのも、ある意味でそれに近いものがあるのかなと。今回こうして3回目の話をしていると、初回や2回目のテーマとつながっていく感覚がありますね(笑)。
吉泉:さっきの話にまた戻ってしまうんですけど、「つくる」ということこそがまさにその核心なんじゃないかと思っていて。自分じゃない他者に触れて、そのフィードバックを感じながら、もうちょっとカッコ良く言うと、世界を手触りをもって理解したり、感じたりする。その体験自体が、「つくる」ということなんじゃないかなと思うんですよね。だからこそ、つくることを外部化してしまったり、あるいはプロセスの最後の作業としてだけ捉えてしまうと、もの凄く大事なコアが抜け落ちてしまう。自分自身の手でつくってみることは、世界を捉え直すためのある種唯一の方法くらいの意味を持っているようにも感じています。そういう視点で捉えると、デザインの本質的な部分、絶対に抜け落としてはいけないようなものが、より見えてくるんじゃないか。そんなふうにいつも思っていますね。
原田:自然との向き合い方というのもそうですよね。最近ではサステナブルなデザインとかリジェネラティブといった言葉がよく使われますけど、それらも概念化されているものだと思うんです。本来であれば、自然とじかに向き合っているからこそ、「この尊い自然をどう守るか」「それを自分のデザインの領域でどう行動に移すか」というような問いが生まれてくるはずなんですが、そこが抜け落ちて概念だけが先に走ってしまい、その間が抜けてしまうと本質的なクリエーションにはなり得ないんじゃないかと感じますね。
吉泉:言葉は凄く便利だし、力を持っているものではあるけれど、同時にとてもおそろしい存在でもあるなと思いますね。
山田:非常に都市的なものでもありますよね。言語そのものが。
吉泉:たしかに。言葉はコミュニケーションのためにできたひとつのルールなんですよね。
山田:やっぱり、ヒマラヤやアラスカのような場所に暮らす人たちは、言葉にしなくても、地球の温暖化を感じていると思うんですよね。環境問題も肌身で感じている。でも、僕たちは言語化することによって向き合わざるを得ないところがあるのかなと。
原田:そこで出てくるジレンマが、分からなさと向き合うことが大事だということを、デザインの仕事を通じて日々関わっている人たちに分かってもらうためには、結局言語を必要になってしまう(笑)。そのジレンマにどう向き合っていけばいいのかというのは難しい問題だなと思います。
吉泉:本当にそうですよね。だから、そもそも「デザイナーがデザインしたものを他の人に使ってもらう」という一連の流れ自体を、一度疑ってみるべきなのかもしれないと思うんですよね。もしデザインが豊かにしていくための手法、方法なのだとしたら、わからなさとどう向き合うかという感覚自体を、みんなといかに共有していけるか。そのあり方そのものをデザインしていく必要があるのかもしれない。そんなことを最近グルグル思っていたりしますが、結構難しい哲学的な話になっていきますよね(笑)。
原田:そのあたりは、次回でじっくり扱おうと思っていたテーマだったので、続きは最終回にしましょうか。
今日は、「ものをつくること」や「身体で感じること」が、デザインにおいてどんな意味を持つのか。つくることと考えることの行き来の中で何が見えてくるのか。そんなお話を中心に伺ってきました。最後に、デザインというものを捉え直して、社会への届け方も含めていま改めて考えた方が良いのでは、という話が出ましたが、最終回となる次回は、デザイナーやデザインがこれから社会にどう関与していけるのか。少し難しそうなテーマですが(笑)、できる限りお話していきたいなと思っています。今日もありがとうございました。
吉泉: ありがとうございました。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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