色と形だけでは語れない、グラフィックデザインのこれから | 長嶋りかこさん〈4/4〉
「デザインの手前」は、デザインに関わる編集者2人が、さまざまなクリエイターをお招きし、デザインの本質的な価値や可能性についてお話しするトークプログラムです。ニュースレターでは、最新エピソードの内容をテキスト化してお届けしています。グラフィックデザイナー・長嶋りかこさんの最終回では、出産によってデザインがどう変わったのかという話から始まり、これからのデザインのあり方にまで話が及びました。
出産前後でデザインは変わったか?
原田:前回まで長嶋さんが出された書籍『色と形のずっと手前で』を起点に、デザインの手前の話を色々聞いてきましたが、最終回はもう少しデザインに近づいた話をしようかなと思っています。
山田:そうですね。手前に行ったような、奥に行ったような(笑)、だいぶ深いところまで行ってしまったところがありましたね(笑)。長嶋さんの本自体もそういう本だと思うのですが、最終回は中心にある部分を聞いていきたいなと。
原田:単刀直入にまずお聞きしたいのですが、出産前後で長嶋さんのデザインは変わりましたか?
長嶋:変わっていない部分もありますが、変わった部分で言うと、自分がコントロールできないものを取り入れるようになりましたね。もう子ども自体がそうじゃないですか。全然コントロールなんかできない自然のような存在で。その面白さをもっとデザインに組み込みたいという気持ちが結構出てきて、線や文字を扱う時に既成のものを使ったりしないで、もっと偶発的に起こる原始的なものを取り込むようになったというのはありますね。
原田:「百年後芸術祭」の仕事は、まさに子どもが書かれた線をそのまま使っていますし、そういう仕事がいくつか続いた気がしていて、見た目的にもプリミティブな方向に向かっている印象があります。本の中でも、お子さんが描く線に触発をされたという記述が色々出てきますが、そういう部分がダイレクトにアウトプットに繋がってきている部分があるのですか?
長嶋:そうですね。愚直な部分では、そうした「子どもの線」などがありますし、例えば、坂本龍一さんの『Playing the Piano 1212202』というアルバムのためにつくったデザインは、ピアノ線にインクをつけて、自分が描くというよりもピアノ線に描いてもらったようなものをつくりました。子どもの線を眺めている時と、これをつくっている時は同じような感覚があって、自分以外の存在、しかも人間ではないものによって偶発的に織りなされるものを組み込んでいくみたいな意識がありましたね。
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デザインへの批判的な眼差し
原田:長嶋さんはデザインの仕事を続けられているので、デザインが好きだと思うのですが、一方でデザインに対して自己批判的な姿勢もあるのかなと。本の中で、これから生まれてくるお子さんのために洋服を用意していたけれど、いざそれをお子さんに着せる時、クッキーの型にはめてしまうような違和感があったという話が書かれていましたよね。また、本の書き出しではより直接的にデザインに言及されていて、「これしかないのだ答えは、という顔をしている。そうした顔をしたグラフィックやプロダクトや空間や建築物に出会うと、蚊帳の外にいるような気がしてくる」と書かれています。ここからは物事を制御したり整理したり、型に収めていくような直線的なデザインというものに対する長嶋さんの反発や違和感を感じるし、デザインというものをちょっと距離を置いて見ているような気がするんですよね。
長嶋:まさにそうだと思います。これまでも話してきましたが、やっぱり私の生い立ちが大きいのかなと。もちろん、ものをつくることは好きだからやっているけれど、それが社会の中でどう成り立っているのかというところを考えると、良い面と悪い面がどっちもあるような気がしていて。
山田:昔から思っていたのですが、長嶋さんのデザインは、グリッドシステムに則りながら則らないみたいなところがあるじゃないですか。デザインを信じてるいるけど信じてない。信じていないんだけど信じてるみたいな。
原田:愛憎入り交じる感じ(笑)。
山田:そこが長嶋さんのグラフィックの特徴的なところだと思っています。おそらく長嶋さんと共通の知人が多いのだと思うのですが、名刺を頂く時に「これは長嶋さんがデザインしたんだろうな」とわかる時があるんですよね。いま原田さんが話したようなこともそうですが、常に天秤が揺れているようなところが凄く面白いなと思っていて。話されていたお子さんのラインというのは、それこそグリッドなんて全然守らないわけですよね。
長嶋:そうですね。子どもが描く線に本当に癒されて、ワクワクしちゃうというか。「あ、そう来るんだ」みたいな想定外しかないから、楽しかったんですよね。この感覚が自分にまったくなかったのかというと、「いや、あったはずだよな」と思うし、グリッドだのルールだの文脈だのに忠実になり過ぎることで、自分の中の身体性や感覚的な部分にがんじがらめになっていた部分がもしかしたらあるかもしれないし、だからそこはやっぱり行き来するべきところなのかなと思っていて。
山田:そうすると、1回目のエピソードで出た曲線と直線の話にまた戻ってくるところもあるわけですよね。
長嶋:そうですね。そのどちらかかだけが存在するのではなく、そこを行き来しながら、揺らいでいくことでしなやかさが生まれてくるのかなと。それは表現においてもそうだし、多分人としてもそうで。やっぱりどちらかだけというのはとても危ういことで、正しさとか正義とかもそうだけど、それだけを潔癖に突き詰めていくと危ない。どんなに良いことでもやっぱり悪い側面はあるし、例えば私が書いたこの本だって、必ず誰かを傷つけているはずだし。そうした眼差しを自分で持っていたいなと。
わかりやすさは人をバカにしている
原田:世の中的には、ここまでは直線的なデザインがどんどん増えてきた時代だと思うんですね。画一的なペルソナに対して最適な答えを出すといったような。それこそ型をつくって、そこにソリューションを提供していくみたいなデザインがどんどん増えてきたと思うのですが、物事はそんなに画一的ではないという時代において、それこそ直線の対比で「曲線」的なデザインと言うか、ある種制御できないことを受け入れ、その上でどうデザインをするのかということが大事になってきてる気がしています。例えば、以前に「デザインの手前」でコンテンポラリーデザインスタジオ「we+」のおふたりに出ていただいた時に、わかりやすい例ですが、自然現象を形にするデザインの話をしていただきました。それこそ制御できないものとどう向き合うのかという話につながっていくのですが、そういった曲線的なデザインを考えていくことが大事な局面に来ているのではないかと。
山田:わかりやすさみたいなことが良しではなくて、わかりにくいことをわかりにくいままどう受け入れるかということが、時代の一つの大きな要請だと思うんですよね。
長嶋:本当にそう思います。わかりやすいことの罪は凄くあるなと。デザインの面で言うと、大量生産大量消費の時代はそれが必要だったのだとは思いますが、アイコニックなものによって多くの人たちを誘導する消費のあり方が求められていた。それによって経済的に助けられた部分はあると思うけど、いまはここまで生活や価値観が多様化しているわけだから、小さな一つひとつの異なる有り様への姿勢が問われていると思う。やっぱり画一化したものだけだと多様さがないものになってしまう。私はこぼれ落ちてしまう方に関心があるし、そこにコミットできればいいなと思ったりする。そうすると儲からないんですけどね(笑)。
原田:アイコニックという言葉があったように、記号化や象徴化をすることがこれまでのデザインの役割だったと思うのですが、それがあまりにも強まり過ぎてしまうと、デザインがかなり危険なものにもなってしまうというか。悪く人をコントロールすることもできてしまう技術だから、そこと向き合った上でどういうデザインをするのかということを一度立ち止まって考え始める人もだいぶ増えてきている気はします。
長嶋:そうかもしれないですね。それはデザインだけの話ではなくて、私は詳しくないものの、おそらく言論とかでもそうなのかなと思っていて。例えば、コピーライティングにおいては、どうしてもわかりやすくするための機能が求められたり、色んな人に共感してもらうためにわかりやすい言葉や理解を促進するための言葉が紡がれていく。その結果、それ以外の考えや異なる声が出しづらくなったり、それらを排除してしまうみたいなことが生まれてしまうし、小さな声がないものになってしまうような多数決の原理が起こりやすいと思うんです。そうじゃなくて異なるものをそれぞれが受け止めたりすることが凄く大事だと思うし、言論で言えば、「意見を戦わせる」という言い方が適切なのかはわからないけど、それぞれの相違を認めながらお互いに持ち帰るものがあるのかということを話し合うことができるのがきっといいんだろうなと。異なるものを同化するのではなく、異なるものが異なるものとして存在するためには、わかりやすいものだけじゃ絶対ダメだと思うし、わかりやすくないグラデーションの存在が必要だと思う。
そもそも、わかりやすさって何か人をバカにしすぎというか(笑)。「いや、もっと汲み取りたい」「もっと知りたい」と思うし、でもそれをないものにしちゃったり、悪い意味で考える余地がないものが出てきてしまうのは、やっぱり良くないなと思います。
アーティストに学んだ社会との関わり方
山田:話は変わりますが、グラフィックデザインが持つジレンマのひとつに環境との向き合い方というのがあって、長嶋さんはその意識がとても強いと思うんですよね。
長嶋:自分が考える人生の長さが、子どもが生まれたことでやっぱり時間軸が延びるじゃないですか。子どもが生きるさらに100年分とか。今日も凄く暑いですが、こうやって気候が私たちが知っている四季とは異なる形でどんどん変わっていくという危機に対して、自分は本当に大したことはできないけれど、自分の仕事の中でできる範囲のことは何かやりたいというのはあるんですよね。
原田:環境のことを考えるなら、極論何もつくらないことがベストの選択ではあるけれど、一方でやっぱりものをつくりたいというデザイナーやクリエイターとしての欲望もある。その葛藤をちゃんと受け入れた上で、どういう行動や選択をしていくのかという姿勢が長嶋さんにはあると思っています。
環境のことに限らず、ここまで何度も出てきている「自然と人工」だったり、「都市と地方」だったり何でもそうですが、物事を二項対立で捉えずに、さまざまな葛藤やジレンマを受け入れた上でどうするのか。
それはデザインにおいて大切なことであると同時に、実は凄くアート的な態度でもあるように思います。長嶋さんは、アニッシュ・カプーアの展覧会のデザインを担当された時、インスタレーションのような作品もつくられていて、これはグラフィックデザインというよりはアートですよね。それこそ、「アーティストになるのでは?」というか、そういう素地だったり内面的なものを持っている方なのかなと。実際にデザインからアートに転身される方もいらっしゃいますよね。
長嶋:その話を聞いて思い出したのですが、現代美術家の宮島達男さんとの出会いが私にとって凄く大きかったんですよね。まだ広告代理店にいた頃で、アートに疎かった私は恥ずかしながら彼の存在を知らなかったのですが、宮島さんが京都造形大学(現・京都芸術大学)で教鞭をとられている時に、「世界アーティストサミット」というのをやりたいと仰っていたんですよね。世界のソーシャルイシューに対してアーティストという存在はあまりにも関与しなさすぎではないか。アーティストこそ想像力があるのだから、それらの課題を解決する糸口を見出だせるのではないかということで、サミットを開いて対話をするという場が設けられることになり、そのデザインを依頼されたんですね。その時に初めて、デザイナーでも、広告代理店の人でもない、現代美術家という人に会ったことが結構衝撃的で。作品制作をはじめ彼がやろうとしていることが誰からも頼まれずに自分でやっているということが、受注仕事がベースの自分には結構衝撃で。
宮島さんの作品制作のきっかけというのが、原爆ドームに衝撃を受けた幼い頃の経験だったんですね。「なぜ人は人を殺すのか?」という問いを原爆ドームを初めて見た時に受け止めきれなくなり、その時にひたすらデッサンをしたらしいのですが、人間が持つ恐怖とか、光の部分だけじゃなくて強烈な影の部分を見たことが彼のきっかけになって「Mega Death」という作品につながっていく。宮島さんが社会に向けている眼差しには「生と死」についての問いがあるのですが、その姿勢を見た時に、逆に社会に接続するはずのデザイナーはなぜこの問いを持っていないんだろうと思ったんです。宮島さんだけではなく、アーティストはみんなそうやって問いを持って社会に対する眼差しがあって、デザインこそそういう視点を持つべきじゃないかということを宮島さんに出会って凄く思ったんですよね。
原田:それは、坂本龍一さんにも言えることなんでしょうね。
長嶋:本当にそうですね。坂本さんは一音楽家として音を紡ぎながら、それだけではなく、一人間としてどうあるべきかということを凄く意識して活動されていたと思うし、「いやぁ、当然でしょう」といった感じでケロッと社会活動をしていて。それは結構衝撃だったけどやっぱりカッコ良いと思ったし、その姿勢に凄く励まされたところがありますね。
原田:社会と関わっていく時に、どの立ち位置や役割として関わるかということがあると思います。そこには色々な考え方があって、それこそ一人の人間としてということもあるだろうし、デザイナーとしてということもあるだろうし、アクティビスト・活動家として関わるということもある。自分が社会と接続していく時に立ち位置になる場所というか。長嶋さんはあくまでもデザイナーとして社会で変わっていくという意識なのですか?
長嶋:なんだろう。職能を活かしたいというのがあるのかもしれない。自分が持っている能力、それは色や形など視覚言語を操る力もそうだし、今回の本のように言葉を紡ぐこともそうかもしれないですが、自分が少なからずできることを組み合わせて、自分の問いを形にして差し出すみたいなことはやりたいなとは思います。それが何と呼ばれるものなのかは正直自分もわからない。でも、できることをやりたいという感じなのかなと。
原田:あまり言い方は良くないかもしれませんが、社会に対して自分が最もパフォーマンスを発揮できるものを考えた時に、いままでやってきたグラフィックデザインというものがあったということなんですね。
暮らしの延長にある社会課題
原田:いまはデザイナーにとってはある種荷が重い時代になっているような気がします。デザインに対する社会からの要請が高まっていて、環境、福祉、政治など色々な問題があまりに大きくて複雑で、そこにデザインが求められる中で「荷が重すぎる…」みたいなところがあると思うんですね。自分には何ができるのかというところに立ち返らないと、問題が大きすぎて捉えられないみたいなところがある気がします。最初は選択、選ぶことから始めるということで良いと思うし、はじめの一歩としてはどうしても身近にできることとしっかり向き合うということになってくるのかなと。
長嶋:自分の場合は実はそんなに重いとは思っていないんですよね。デザインというのは受注されるものが主だったりするから、その時点で制限があるじゃないですか。だから、制限がある状態というのは結構慣れていて、いま自分がやるべきことの中に制限として環境配慮が加わったり、政治やジェンダーというものが加わった感覚というか。
それぞれの持ち場で、自分の生活で何に困っているのか、何に違和感を感じているのかということから自然に接続しているものであれば、多分重いとは思わなくて。できるだけ環境配慮をしようと思ってマテリアルの選び方が変わった時点で、選択肢は急に変わるんですよね。紙の中でもさんざんファイン系のテクスチャがあるものが良いと思っていた時期の自分はもうそこにはいなくて(笑)。「この制限を逆手に取りつつやれることをやりたい」みたいな。それは全然マイナスのことではなくて、選ぶ手間が減った分、別のことに時間を使うようになった感じです。
山田:社会と対話ができていると、自分がなすべきこと、できることも自ずと見つけていけるのかもしれないなと。それはやっぱり社会と関わり続けていくことで出てくることなんじゃないかなと思います。
原田:環境とかジェンダーとか課題が独り歩きしているんですよね。自分の生活なり身の回りの延長線上でこれらをとらえられると、自然とそういう動きになっていくはずなのですが、どうしても言葉が独り歩きしてしまっていて。何かやらなきゃいけないみたいになってしまっている状況があるけど、前回も出た出産など身の回りの関わるままならない話というのと、社会に対してデザインというもののあり方を発信していくことが地続きだという話と同じだと思うのですが、そこがどれだけ自然に続いていけるのかというところなのかなと思います。
長嶋:例えば、いまから政治の話をしましょうと言うとちょっと構えますよね。「そこまで知らないしな」とか思い始めてしまって。そうじゃなくて、生活で何が困っているのか、壁になっているのかという話をし始める。私の場合だったら「子育てでこういうことがしんどい」という話は、完全に政治とつながっているんですよね。暮らしから話し始めると、実はそれが政治の話になったりする。
山田:自分の中にある辛さとか困っていることとか、そういうことをちゃんと言語化していけば、それはジェンダーやセクシュアリティの問題やまた違う要素のこともそうですが、お互いに気づいていくことができる。それがだんだん大きな渦になって社会に対してアクションをとっていくことができるのかなと。そういうことを積み重ねていくことが、結果的に一番早いと言うか、 近道だったりするのかなというのは思うところで。その意味で長嶋さんが書かれた本は、特に男性とかまだ出産とかそういうことを考えていなかったりとか、もうちょっと手前にいる人たちに大きな気づきを与えてくれるのかなと思います。
原田:生活とか身の回りの課題が社会とどれだけつながっているのかということが、本当に凝縮して書かれている本ですよね。そういう意味でも凄く読んでほしいなと。
山田:母乳の話とかも面白いですよね。話を聞いたことはあるけど、なかなかこの切実さでは伝わってこないというか。
見えない存在を可視化するデザイン
山田:世の中には色んな人がいて、出産を経ても必ずしも子どもに世の中の人が一般的に抱いてるような愛情が持てないお母さんも中にはいるわけじゃないですか。そういう人は可視化されなかったり、発言がしにくいところがあって。
長嶋:そうですね。愛情を持てないとか、虐待とかもそうだけど、それは決して他人事ではなく、私もその気持ちがちょっとわかっちゃうところがあるというか。そしてやっぱりそこには必ず原因があるんですよね。自分という手しかなくて他の手助けがない時期が続くと、やっぱりいっぱいいっぱいになりすぎちゃってエマージェンシー状態になる。
私も子どもを抱っこしていて、もうあまりにも泣き過ぎて全然泣き止まなくて、こっちもパニックになってしまって、もうダメかもという苛立ちとともに一回ちょっとベッドにポンと子どもを投げたことがあるんですよね。本当にちょっとポンと置いただけなんだけど、いつもの置き方とは確実に違って、意識としてはちょっと投げた。その時に、「あ、ヤバい。いま私は子どもを投げた」と。だから、世の中で起きている虐待というのも全然他人事じゃないと思うし、そういうことが起きてしまうのには必ず原因があって、お母さんだけの問題じゃなくて、社会の仕組みの問題であるということが本当によく分かるというか。
例えば、ホームレスの人がコンビニとかで何かモノを盗っちゃったとして、日本の場合はその人を責めたりするけど、「それは社会の問題だ」という姿勢を持つ国もある。その人だけの罪を問うのではなく、その背景には何があるのか、どういう社会があるのかということを考えて、それ故に表立って出てしまった行動がこれである、ということを見るようにする。それは政治にもきっと必要だと思うし、人として必要な眼差しなんだろうなと。
原田:そういう見えない存在や聞こえない声を社会と繋ぐためにデザインという技術が使われると良いですよね。
長嶋:本当にそう思う。どうしてもグラフィックデザインの評価の軸は色と形になりがちですが、その一軸だけで語っていた時代はもう終わりだなと思っていて。「なぜそれが良しとされるのか」という評価軸は、もっとたくさんあっていいんじゃないかなと思います。
原田:ここまで全4回にわたって長嶋りかこさんにお話を伺ってきました。これまでの「デザインの手前」とはまただいぶ毛色の違う「手前」の話がお聞きできたのではないかと思います。長嶋さん、ここまで長時間ありがとうございました。
長嶋:ありがとうございます。楽しかったです。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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